【インタビュー】水の樹のはじまり(はちみつ32号より)

ここから、花を咲かせよう

マチニワで、ひときわ目を引くシンボルオブジェ「水の樹」。
八戸の中心部に根をはりながら
人々の交流の芽が育まれ
新たなコミュニティの花が咲き
大きく、大きく育っていく様子を優しく見守ります。

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「水の樹」は昭和40年代後半に生まれた「海の樹構想」を元に誕生しました。
「八戸を愛する心」を育もうとする若者たちの強い想いが半世紀の時を越えて、ここ、マチニワへと繋がります。

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八戸漁業指導協会 会長理事 熊谷 拓治 さん
 
 昭和50年11月、その年の春に落成したばかりの八戸市公会堂で、八戸青年会議所主催の「市民の夕べ」が開かれました。八戸を愛する心を育てる「ラブ・はちのへ運動」の始まりでもあります。プログラムのメインは一本のスライド『八戸・風と土と心』の上映でした。この街の未来のため、当時の八戸青年会議所のメンバーが、約2年がかりで勉強を重ね、議論を尽くし、あらゆる角度から八戸の歴史と未来を見つめた集大成のスライドです。その中で「海の樹構想」は紹介されました。今回、当時の青年会議所メンバーで、スライド制作に携わった熊谷さんにお話を伺いました。

 熊谷さんたちがまず取り組んだのは、八戸の発展の歴史を知ること、そして自分たちの足もとを見つめることでした。
 八戸の人々は火山灰の痩せた土地で凄惨な飢饉に見舞われながらも、海を活路としてなんとか生き延びてきました。やがて町村が手を組み「八戸市」となり、大きな港を手に入れると、海との繋がりはより強いものとなりました。漁業のみならず新産業都市として、商業も工業も農業も相互に成長を続けてきたのです。
 ところが日本の経済成長は低下をはじめ、石油ショックによる煽りもあり、企業は緊縮を迫られる時代を迎えました。地場産業にも否応なく陰りが差し始めました。熊谷さんたちは各産業同士が、近代化・合理化とともに関係が希薄になっていることに危惧を覚えます。「地場産業は相互依存しているくらいの方が成長する。なんとかしてこの街の一体感を取り戻したい。これからどうしたらいいのだろう、いや、どんな街にしていくべきだろうか。」熊谷さんたちメンバーは考えます。
 そして導きだした答えは、八戸を「知り」、「愛して」、「共につくる」ことでした。土地への思いや誇りをベースにした街づくりです。都会を真似るだけの街づくりではなく「八戸ならではのスタンダード」、「郷土を思う心を一つにするもの」、「街の根底にたゆまず流れている精神母胎のようなもの」を追求することでした。
 ある日、協働でビジョンづくりに励んでいたシンクタンクの研究員から、一枚の不思議な絵が提示されました。それは八戸の主要道路や川を塗りつぶしたものでした。まるで海から生える一本の樹木のようで、その樹木は港に生える根っこから海の滋養を吸い上げ、幹を伝って力強く街へと枝葉を伸ばしている姿でした。海からの無限の滋養が街へと浸み渡る。それは「海の樹」、まさに八戸の姿そのものでした。

 はるか昔から、八戸には海からいろいろなものが入ってきました。モノだけでなく人も。そして地元の風土に同化して、共に歩んできました。熊谷さんは言います。「外から吹いてくるのは風、ここにあるのは土、そこから生まれるのが心。この街は『海の樹』です。」
 この考えをメンバーで共有し、「海の樹」に花を咲かせよう、咲いている花を探そう、名もなく埋もれている花を見つけ、街づくりに生かそう、という思いが強まっていきます。そして、この決意を八戸青年会議所のメンバーが市民に呼びかけたのが「ラブ・はちのへ運動」の一つ、「海の樹構想」です。
 この考えを元に、マチニワの象徴として「水の樹」が生まれました。マチニワが市民の新しい居場所・活動の場となり、新しいコミュニティが生まれ、これからの世代へと繋げ育っていく空間であるようにと、八戸のまちと人々の挑戦を見守っています。

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モチーフとなった「海の樹」
海の中に根をはり、海からの滋養をもらい、大きく育つ1本の樹のように見える。


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